風土病・感染症に挑んだ偉人を紹介│日本の公衆衛生を築いた医師たち
健康・ウェルネス
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現在「風土病」と呼ばれる感染症は、蚊が媒介するマラリヤ、寄生虫や動物が媒介する病気などが挙げられます。しかし、当時ではそういった名称もなく、ただ日本では地域ごとに特徴的な病が広がり、人々の心身を脅かしていました。
明治から昭和にかけて、この風土病に立ち向かい、その原因を解明して人々の命を救い、地域医療と衛生の基盤を整えたのは、全国的に名前が知られているとはいえない地元の医師たちでした。
この記事では、風土病と闘って現代に功績をもたらしてきた医師や研究者たちの物語・歩みを紹介します。治療することによってある程度の病は治るという価値観が広まりきっているこの時代だからこそ、ぜひ過去について触れてみましょう。
なぜ「風土病」と呼ばれたのか?

そもそも「風土病」とはどのようなものなのでしょうか?まずは、その定義や特徴について見ていきましょう。
地域に根づく病気の背景
1960年に出版された『風土病との闘い』(佐々学著 岩波新書)には「風土病とは、ある地域の気候、土壌、生物といった自然環境の特異な様相を根源とし、これとその地域にすむ人々の風俗、習慣、因襲などとの織りなす複雑なつながりの中に派生した特殊な疾患をさす」と記されています。
その地域の山や川、水田などの地理環境、気候、地域ならではの家畜や生物などが原因となっているだけではなく、そこに暮らす人たちの風習や文化なども関係しているのが風土病です。
同書には「風土病の発生はいわゆる僻地に多い」とも書かれており、これには主に以下の要因があると考えられます
- 都市部と比べ貧しい
- 上下水道が整備されていない
- 医療体制が貧弱である
これらのリソース不足によって、風土病は引き起こされてきました。
風土病対策は「地域医療」の始まりだった
「(都会の人たちなどは)こうした僻地に潜在する無縁の病根には何の関心も」持っていないに違いなく、僻地は「近代医学の陽の当たらない場所」であるとも同書には記されています。
風土病に挑んだのは、いわゆる「中央」の人々ではなく、「地域」の人たちでした。地域の医師たちが地道に研究を続け、ときには啓蒙活動を行う教育者となり、さらには風土病対策を考え、指導する行政官となります。
しかし、その活動はすぐに実を結ぶものではありませんでした。試行錯誤を繰り返し、何年間もの歳月を費やしても解決策が見いだせないことは当たり前のことだったのです。
風土病と闘った日本の医師たち

風土病は数多くの医師や研究者たちによって解明され、克服されてきました。ここでは、代表的な風土病である「日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)」と「エキノコックス」に関わった人たちを紹介しましょう。
宮入慶之助─ミヤイリガイの発見者

引用元:宮入慶之助記念館
「日本住血吸虫」とは、体がやせ細り、腹部に水がたまって大きく膨らみ動けなくなって、やがて死に至るという病気。山梨の甲府盆地、広島の片山地区(現、福山市)、福岡や佐賀の筑後川流域が三大流行地となっていました。
それぞれの地域で呼び名がありましたが、1904(明治37)年、岡山医学専門学校教授の桂田富士郎が病原体の寄生虫を発見し、「日本住血吸虫」と命名しました。
その後、寄生虫の卵がセルカリアという幼虫に成長して、水中で人の皮膚から侵入することがわかりましたが、卵からセルカリアになるまでは解明されていませんでした。
寄生虫が小さな巻貝に侵入し、これを最終的に寄生する前の段階である中間宿主(ちゅうかんしゅくしゅ)として成長することを発見したのは、九州帝国大学教授の宮入慶之助。1913(大正2)年のことです。この巻貝は、のちに彼の名前からミヤイリガイと呼ばれます。
この発見が、日本住血吸虫症の国内制圧につながっていっただけではなく、世界で住血吸虫病に苦しめられる人たちへの一筋の光となったのでした。
杉浦建造・三郎─山梨で住血吸虫症と闘った医師

引用元:富士の国やまなし
山梨県で日本住血吸虫症の研究、治療、撲滅に生涯をかけたのは、杉浦建造と建造の娘婿である三郎の父子医師です。
建造は、日本住血吸虫症の根絶にはミヤイリガイの撲滅しかないと考え、ミヤイリガイをエサとする蛍の幼虫やアヒルを田んぼに放ち、私財を投じてミヤイリガイ撲滅活動を進めます。
やがて、その活動は官民一体による運動に発展、1925(大正14)年には撲滅運動の組合が結成され、終息が宣言される71年後の1996(平成8)年まで県民一丸で進められました。
建造の死後、その遺志を引き継いだ三郎は、1949(昭和24)年に創設された山梨県医学研究所で風土病撲滅運動に大きな役割を果たしました。
二人が活動した医院は、復元され「風土伝承館杉浦醫院」として開館。当時の様子を伝える資料を見学できます。
三神三朗─地域医療の制度化に尽力した先駆者
前述の「日本住血吸虫」と命名した桂田富士郎と交流があった三神三朗は、現在の山梨県吹石市出身で現・甲府市に医院を開業していました。
桂田が寄生虫を発見したのは、腹が膨れた三神家の飼い猫を解剖した結果でした。三神は桂田の協力者であり、日本住血吸虫の発見に関わっていたわけです。
三神は、日本住血吸虫症への治療薬「スチナーブル」の治療実験を行い、有効であることを証明しています。そのままでは副作用の強いスチナーブルの薄め方や注射回数を確立し、その方法を公開したため、日本住血吸虫症で命を落とす人は激減したといわれます。
早朝から深夜まで診療に明け暮れていたという三神は、貧農が多かった地域で、お金のない患者には無料で治療を行っていました。
もうけ主義の医療ではなく、地域の人たちに貢献するという基本的な姿勢は、その後も代々引き継がれています。
神谷正男・八木欣平ほか─北海道のエキノコックス対策
エキノコックスが主にキタキツネによって媒介される感染症であることは、今や北海道民には基本的な知識となっています。
エキノコックス症の最初の患者が発生したのは、1936(昭和11)年のこと。その後、1993(平成5)年には、全地域内で動物間流行が確認されています。
この研究や対策などに尽力したのは、北海道大学獣医学部教授の神谷正男、同研究員の八木欣平や同大農学部教授の山下次郎などです。
八木研究員の論文によれば、初めての患者が北海道大学付属病院に報告されると、行政が主体となって大学や医療機関、保健所、関係団体などと連携し、さまざまな対策が行われたとのこと。
その結果、1990年代後半には患者発生数の急増が予測されたものの、年間の新規患者の発生は20人前後にとどまりました。
前述の論文は、「患者の爆発的な増加を抑制できたことは、動物間における感染状況を的確に把握すると共に、本寄生虫の生態を明らかにし、その情報を住民の健康診断、衛生教育等の対策に有効に活用してきた成果である」と結論しています。
これは国際的にも高く評価された「地域公衆衛生」の成功例とされています。
風土病と闘うことが示した「地域と科学の関係」

これまで見てきたように、風土病と闘ってきたのは地域の医師や研究者たちでした。改めて、その意義や意味をまとめてみましょう。
闘った偉人たちは、研究者であり“地域の医師”だった
『風土病との闘い』の言葉を引用したとおり、風土病は「僻地」で多く、「中央」からの関心は低い病気でした。風土病を憂慮し、果敢に闘いを挑んだのが地方の医師たちだったことは前述のとおりです。
その地域にしか蔓延していない病気であり、「中央」は関心を持っていないため、地域の医師が風土病に対峙したのは当然だったといえるかもしれませんが、地方ならではの文化的な背景もありました。
『風土病との闘い』の著者である佐々学は、風土病を定義したのちに、こう記しています。
「土地の住民たちは、たいていこれらの疾患(風土病)を先祖伝来の業病とあきらめて、苦しみの中に早死にしても、それを宿命と信じている」
さらに、風土病があることを「郷土の恥」と考え、東京出身で研究に赴いた著者に、病状などを隠そうとさえしたといいます。
風土病とは、単なる地域の病気ということだけではなく、その地域ならではの文化や信仰、さらには人間関係なども入り組んだ病気だったといえるでしょう。
そのような複雑な状況もあったため、風土病の研究が「中央」としての都市ではなく、地方の現場から始まったことは、必然だったのではないでしょうか。
その点で、顕著な例が、杉浦建造・三郎や三神三朗の活躍でした。風土病の撲滅は、単に治療を行うということではなく、古くからの因習を理解したうえで見直し、生活習慣を改善し、それを近代医学と結びつけることで実践されたのです。
地道な記録とネットワークが残したもの
そして、その実践においては、数多くの地域の医師たちがさまざまな活動を行ってきました。もちろん、「中央」の医師や研究者たちもその中には含まれます。
しかし、風土病解決への基礎となったのは、地方の医師たちによる地道な記録でした。ひとつ発見しては、また新たな疑問や課題が見つかるという過程を、何年もの歳月を費やし、コツコツと積み上げてきたわけです。
その研究成果は、ほかの風土病の研究に活かされ、さらに研究が重ねられていきました。今回紹介した医師たちはほんの一例ですが、彼らも多くの医師や研究者とつながりがあり、そのネットワークの中で風土病に関する医学が発展してきたといえます。
そして、それは過去の話ではなく、現在も疫学の基礎として重要視されています。「国立感染症研究所」(現在は、「国立健康危機管理研究機構」の一部門)や各地方にある「地方衛生研究所」は、風土病に挑んだ医師や研究者たちの活動が礎となっています。
現代への継承|感染症とともに生きる社会へ

現在の日本では、風土病はほぼ撲滅されたといえるでしょう。しかし今もなお、感染症は問題となっています。
COVID-19が再び照らした「地域連携の力」
特にCOVID-19、いわゆる新型コロナは、誰もがまだ記憶に新しいはずです。風土病が「未知」の病気であったように、新型コロナも「未知」の感染症でした。
しかし、そこで必要とされたのは「地域」の力だったといえるでしょう。国からさまざまな対策が命じられたのは事実ですが、新型コロナへの対応は、病院の事情・地域社会の状況などにより、日本という島国一つをとっても対応がさまざまでした。
明確だったのは、「現場の力」が問われたこと。新型コロナでは国からの要請などがありましたが、それぞれの地域が対応するしかないという点は、かつての風土病と共通していました。
埼玉県のある病院では、「COVID-19が地域連携に与えた影響」として、「行政との連携強化」「日常の感染対策の重要性を再認識」「病院以外の組織との地域連携の必要性」を挙げています。厚生労働省も同様の観点から、報告をまとめています。
医療、行政、住民が一体となる仕組みづくりが必要なのは、風土病の時代と何も変わっていないわけです。
「風土病」を語り継ぐ意義
今までの説明に、まさに風土病を今でも忘れてはならない意義があるといえるでしょう。
単に「病気」としての風土病ではなく、地域の環境を脅かした「社会問題」としての風土病を考え続けることが必要なのです。
風土病とは、地域の環境とその地域の人たちが共生してきた記録。そこに、ときに地域社会の問題を明らかにし、地域社会の人たちに寄り添い、地道な研究を重ねてきた地域の医師や研究者たちの活動が重ねられます。
地域の人たちも地域の医師や研究者たちも、風土病と闘った人たちの記憶や記録は、未来への「学び」として貴重な価値を持っています。
まとめ|令和でも生きる“地域医療という希望”

風土病とは「中央」が関心を持たない「僻地」の病気でした。そこには病気そのものの問題だけではなく、地域の文化や風習などの問題も複雑に絡んでいました。
そのような状況の中、風土病の解明に挑み続けたのは、全国には名前を知られていない、数多くの地域の医師であり研究者たちです。
その無名の人たちによって、現在の日本の地域医療は確立してきたといっても過言ではありません。
現在の日本には、風土病がないといえるでしょう。しかし、世界に目を転じると、まだまだ風土病は存在します。また、新型コロナのような未知の感染症は、今後も私たちの脅威となることでしょう。
場所を変えても、時代を変えても、風土病に挑んだ人たちの歴史は、まったく古びることない教科書となっています。地元の病院に行ったとき、「地域医療」や「公衆衛生」の礎を築いたといえる、風土病に挑んだ人たちのことを思い出してみてください。







